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December 27, 2004
花咲町アートプロジェクトPart1
廃屋となった民家を利用しインスタレーションアートの制作、展示を行なおうという「花咲町アートプロジェクトPart1」が、「横浜トリエンナーレ」応援企画の1つとして動き始めている!






■12月23日制作前の現場にて市民広報チーム「はまことり」を出迎えて下さったのは、横浜市の一級建築事務所MoNoの建築士で、同プロジェクトプ ロデューサーの丸岡さんと長嶌さん。(→写真)
この企画はMoNoが管理し、建て直しを行なう家の持ち主から、取り壊し前まで家を自由に使う許可を貰った事から始まった。貴重な機会を市民レベルで、新しい目で空間を使えないかと考えていたお二人は、今年10月「花咲町アートプロジェクト Part1実行委員会」を設立した。
■実際に足を踏み入れた「廃屋の民家」の内部は住居人が居なくなった今でも、生活感が漂う日常的空間。この空間でどんなアートが生まれるのだろうか、今からわくわくする。「住まれた方の空気感がアーティストにインスピレーション与えるでしょう」という長嶌さんの言葉がとても印象的。
■参加アーティストは総勢5名で、20代で学生や会社勤めをしながら作品制作に取り組んでいる「休日アーティスト」である。「市民レベルで活動しているアーティ ストでもがんばれば、こんなことも出来るという記録やスタイルを広めていきた い」というプロデューサーの趣旨に賛同して集まった。
このアートプロジェクトは完成した作品展示だけでなく、さまざまな世代が現代アートを体験できる参加型になるように制作のプロセスもパフォーマンスプログラムとして公開される。
■作品公開制作は2005年2月中旬から予定
2月19日(土)オープニングパーティー
2月20日(日)~27日(日)一般公開オープン
来年2月のオープンに向け、いよいよアーティストディスカッションやボランティアスタッフ募集など本格的に稼動していく「花咲町アートプロジェクト Part1」。今後の様子を「はまことり」では随時レポートしていきます!(takeda)


*制作及び展示場所:横浜市西区花咲町4丁目128番地
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●同行した「はまことり」2名の感想
取材にお邪魔した日は、やっと冬らしくなった底冷えのする日。凍えながら旧家を探し歩く私たち「はまことり」の前に、「花咲町の旧家」は、住宅街の中に突如現わしました。
ついこの間まで人が住まれていたという家の中には、住んでおられた方たちの記憶や空気がまだ漂っているようで、時折うっかり覗いてしまったような錯覚に陥ります。
今後始動するインスタレーション制作が、ギャラリーや美術館といった非日常的空間と対照的な、普通の民家という「場」をどのように生かして作品として作り上げていくのだろう。今からとても楽しみです。 (かねこ)
生活音が聞こえなくなった「家」に、たくさんの人が音を交わしながら作品を創り上げていく。そして、鑑賞者も姿を消してしまう家に音を残して、思いを創り上げていく。そんな花咲町4丁目。この素敵なプロジェクトは、記憶と記録が形を変えて、2005年の冬空に羽ばたいていくのだな、と思いました。休日アーティストが家にとって最後の花を咲かすとしたら、鑑賞者は、新鮮なお水を1週間差し上げ続けましょう!企画された長嶌さん丸岡さん、感謝&期待してます!(野毛山かもめ)
December 26, 2004
横濱ハーバーライトファンタジー2004!
以前にブログでご紹介した“横濱ハーバーライトファンタジー”。山下公園地区では12/23(木・祝)から12/25(土)までの3日間開催されました。色とりどりの美しい光が山下公園一帯を優しく包み込みました!
■開始日に当たる12月23日(木・祝)は雨こそ降っていないものの、骨の髄まで冷えそうな寒い日でした。山下公園一角の市民が作り上げるキャンドルスペースでは、ボランティアの皆さんがダウンなどに厚く身をくるんでお昼頃から準備に取り掛かっていました。キャンドルを並べていく方法は各ボランティアのチームによって様々。日が暮れ始め、一つまた一つとキャンドルに灯りがともり始めるとあたりの雰囲気は今までと打って変わって次第に幻想的な空気に!
■階段を登るとその先には国内外で活躍する光アートチーム「神鬼廊(しんきろう)」の手による巨大なミラーボールやサーチライトが設置され、キャンドル・サーチライト・ミラーボール・音楽が一体となって山下公園の夜を異空間へと変える壮大な景色を演出していました。




December 19, 2004
建畠晢さんへのインタビュー
2001年に記念すべき第1回目が開催された横浜トリエンナーレ。集客数35万人の記録を打ちたて、現代アートの祭典としては大規模な試みであったにも関わらず、前回の記録がなかなか一般の私たちの目には触れにくい。なんとか前回の様子をいろんな人の証言を元に知りたい。そんな思いから広報チーム「はまことり」では、第1回横浜トリエンナーレのアーティスティックディレクターを務められた建畠晢さんにインタビューに答えていただきました。

建畠晢さん【プロフィール】
早稲田大学文学部卒業後、国立国際美術館研究官 (1976−91年) を経て、1991年より多摩美術大学教授。現在、現代美術の評論活動のほか詩人としての活動も多い。展覧会企画では、「絵画の嵐・1950年代」展(1985年/国立国際美術館)、「ドローイングの現在」展(1989年/同)、「インド現代美術」展(1998年/国際交流基金フォーラム)などのキュレーターを務める。その他、第44回(1990年)、第45回(1993年)ヴェニス・ビエンナーレの日本コミッショナーほか多くの国内外展に参画。著書に評論集『問いなき回答』(1998年)、詩集『余白のランナー』(1991年)など。横浜トリエンナーレ2001においてはアーティスティックディレクターを務めた。
横浜トリエンナーレ2001はどういった経緯で開催されたのでしょうか。
日本からも発信する必要があった。
世界でベニス、サンパウロ、アジア各地において、国際的なアート展が行われるなか日本でも国際展を開催しようという議論はたびたび起きていました。1998年、国際交流基金に6~7名による小規模な研究会が結成され、1年間かけてリサーチを行いました。その研究会のメンバーとして私は当初からトリエンナーレ開催に関わることとなりました。その後、国際交流基金の予算請求により、99年より候補地のリサーチが具体的に検討され始めました。まず、日本で国際展を行うにあたって1.国際的な責務、2.アート自体の活性化、の2つの理由があげられました。日本は様々な国際展に参加してきています。しかし、それは結局他人の土俵です。日本からも発信する拠点を持つべきである、ということ。そして日本の美術をもっと活性化させる必要があるということです。1.と2は密接に結びついています。国際展は大勢のアーティストが参加します。ですから、広い場所を確保する必要がありました。各自治体からプロポーザルを受け、検討した結果、横浜市が一番現実的実現可能でした。こうして場所はかなり早い段階で横浜市に決定しました。主催は、国際交流基金、横浜市、NHK、朝日新聞。アーティスティックディレクター4人によって運営されることになりました。その時点で問題となったのは、「現代美術は人が入らない」ということです。今まででもアンディー・ウォーホール展の10万人が過去最高の数値です。かねてより私は国際展は、市民をアートにおいて啓発し、巻き込むことによって社会的求心力を持つことが絶対条件だと考えていました。当時、なんの根拠もなかったのですが、スケールメリットがあるから、絶対に人は入るんだということを繰り返し言い続けていました。会議を通じて20万人を目標とすることにしました。国際展は単なるアートではなく、科学、市民、他のジャンルを総合的に巻き込むことにしたい、という考えから「メガ・ウェーブ〜新たな総合に向けて」というなんとも分かるような分からないようなテーマに設定しました。また、折角アジアでやるのだから、アジアのアーティストを多く起用しようと考え、私が選んだアーティストは3分の2まではアジアのアーティストとなりました。補足として付け足すと、アジアの作家で、アジア以外に在住している作家ということを特に意識しました。
さまざまな展覧会がある中で、国際展が持つ使命についてはどうお考えですか。
カッティングエッジであることは絶対。
定期的に開催される国際展であるからには、「カッティングエッジ」(最先端)であることは絶対です。そうでなかったら、定期的に国際展を催す必要はないと私は思っています。当時テーマを持つべきかどうかという議論がありましたが、私はノーコンセプトであることがテーマだということをかなり強く主張しました。カッティングエッジを強調し、アートという枠を超えた総合的な方向性を強く目指したかったということがあります。
当時開始直後にテロが起こりました。会期中にテロに関する作品を創るという話はなかったのですか。
アートには予見性がある。それは否定できない。
テロは横浜トリエンナーレが開始した直後に起こりました。ですが、私は特にテロに関連した作品を作家に作ってもらうということは考えませんでした。しかし、テロに関連して、アーティストの時代を予見する力を間近に感じるエピソードはありました。アートは時代を予見することがあるということは時折耳にすることがあります。私自身そういったことは実際にあるんだと感じています。が、それは決して絶望に陥れるだけのことではない。アートは確かに、醜い現実の側面を暴いたり、この世の矛盾を表現するようなネガティブなものもありますが、私はどこか希望がないと、と思っています。
アート・社会との繋がりに関してどのように考えておられるのですか。
横浜トリエンナーレは、アートが社会性を持つということを実現する可能性を秘めている。
現在、アートの世界では、「芸術のための芸術」という考えが主流を占めているようなところがあります。歴史上で、芸術はいつも宗教や権力に結びついて発展してきました。それが近代に大きく転換し、「芸術のための芸術」という動きが主流を占めるようになりました。その転換によって、芸術はより純粋化したともいえます。しかし逆説的にアートは社会的効力を失いました。どういうことかというと、今まで教会、権力に結びついて存在したアートには根拠がある。しかし、ゴッホやセザンヌのように、単なるリンゴ、単なる妻の肖像を描くことには根拠はありません。しかし、芸術は社会の中にあるのだから、社会と渡り合う必要があるんです。美術館では芸術のための芸術は○です。しかし、それを国際展でやることは×です。そもそも優れたアートには時代の本質を捉える力があります。アーティストは誰よりも敏感に察知する力を持っているんです。アートが社会性を持つということは、アートをいう枠を飛び出し他の事象を結びついていく総合性が必要だと思います。横浜トリエンナーレはそのことが現実的に実現可能だと感じました。私は、世の中は前提として絶望だと感じることがあります。しかし、アートには救い、生きる力を与えるといった力があると思ってます。今、世の中は原理主義的考えかたによって他者の考えを受け入れないようなところがあります。しかし、アートはコミュニケーションの手段。違う宗教、思想を持った人が一つの作品を見て、「美しい」と感じることができる。もちろん、それがアートのすべてとは感じません。もう少しいうと、私は国際展が主流の現状の流れに対しては否定的です。オールオアナッシングではないんです。静謐な部屋で向き合うような作品は国際展には向きません。国際展ではアーティストの作品が非常に限られてきます。一発勝負になってしまいます。現状は国際展が非常に重視されるようになっていますが、美術館の展示と国際展また、市民によるささやかな展覧会は共存可能だと感じています。国際展だけがすべてを決めてしまうような現在の流れは行き過ぎだと感じています。
前回は観客動員数35万人という記録を打ちたてましたが、その結果に対してどのように捉えておられるのですか。
継続していくことに意味がある。
第1回目の35万人という結果に、「現代美術が受け入れられた」という人がいます。しかし、私はそれは違うと思う。35万人訪れた人が現代アートに興味を持ったから来たのではなくフェスティバルに来たんです。もちろん、その中の何人かが横浜トリエンナーレに来たことによって、現代アートに興味を持ったということはあるでしょう。それから、アーティストがボランティアと一緒になって作品を創ることによって刺激を受けたということはあるでしょう。しかし、それはやはり現代美術が即受け入れられたという結論には結びつかないと思います。それとは別に、継続してやっていくことは必要だと考えています。国際展が定期的に開催されるイコール時代の証明が蓄積されていくことだということです。たとえば、その当時、何が美しいと思われていたかというような美的感受性などが時代を反映する大きな蓄積だと考えるからです。
横浜トリエンナーレの今後に期待すること。
求心力があるからこそ、今後より一層対話・交流の場に育っていってほしい。
まず、最大の条件は、誰がやることになろうと「カッティングエッジ」であることは絶対にはずせない。私は、いくつか国際展で美術館的な発想の企画展を見たことがありますが、それならこんな水膨れしたような規模でやるべきではないと、非常な反発を覚えました。 国際展は時代の最先端を紹介する使命があるんです。
それから、国際的な動向も含めて対話・交流の場になってほしいですね。
トリエンナーレは準備期間も含めて、非常に人を呼ぶ求心力があるんですから。
(感想)
広報チーム「はまことり」に今年9月から参加したものの、横浜トリエンナーレ2001を見逃した私にとって、当時の記録からたどる横浜トリエンナーレ2001はいつもぼんやりと遠い存在でした。横浜トリエンナーレ2001はその規模、集客数からいっても、相当大規模なアートの祭典であったんだということだけは、分かります。当時横浜で一体何が起こったか?関係者は何を感じ何を思ったか?そこで思い切って第1回目のアーティスティックディレクターの一人、建畠さんに取材をお願いしたところ、快く快諾していただいたことから今回のインタビューが実現しました。
この日は、BankART1929にて多摩美術大学芸術学科建畠ゼミにより 催された『横浜会議2004−なぜ国際展か?-』シンポジウムの前のお忙しい時間を縫って建畠さんはインタビューに長時間にわたって答えていただきました。本当にありがとうございました!(金子)
December 18, 2004
どうなる? どうする! 「横浜トリエンナーレ2005」-その4-
その4では、会場に来て頂いた方を3つのグループ(以下、A、B、Cとします。)に分け、ディスカッションした内容を掲載します。それぞれのグループのメンバーは「偶然座った席」で振り分けられ、横浜という土地で開催されるトリエンナーレに一市民としてどのように関わるべきか、何を求めるか、また、横浜トリエンナーレ2005が市民にとって前向きなものとなるためにどうすべきか、それぞれポイントを絞って話し合い、その内容を報告しました。
なお、ディスカッションの前に、前回のトリエンナーレに関わっていた方から興味深い当時の事情についての話を伺うこともできました。こちらに関しての詳細は後ほどお伝えします。
■Aグループの報告
○参加者
アートナビゲーター、編集者、アーティスト、横浜トリエンナーレ2001ボランティア参加者、イベント企画、学生、芸術文化振興財団職員、横浜市、学生など
●どうやって間口を広げるか
・企画のハードルが高すぎる。学生や若い人たちから出てきた企画書だけを見てふるい落とすのではなく、そこに色を付けたり、組み合わせたりして実現に導いてあげたい。コーディネーターが必要である。
・アンディ・ウォーホルもNYのアンダーグラウンドから出てきたアーティスト。横浜という土壌からも新しいアーティストが出現すれば。
・学生には、ボランティア参加が単位やインターシップのカリキュラムとして認められるとよい。
・イベントがはじまるまで、また開催期間中も、人が集まって話し合える場所が欲しい。会場近くに点在しているのが理想。外国人アーティストの行き場としても。
・「サロン・ド・トリエンナーレ」(アーティストやアートに興味ある人などが気軽に集えるような場所)といったようなところやそこで繰り広げられることの過程が見どころにもなるし、トリエンナーレ後の継続性にも生きる。
・学生に限らず、ボランティアが地域マネーとして蓄積され、例えばバンカートなどの施設で利用できるとよい。
・シフトを統括し、少しでもボランティア参加できるようにし、多くの人にトリエンナーレに関わってもらいたい。
●その他
・2001年のトリエンナーレでは、誰がトップで権限を持っているのかがわかりづらく、ボランティアスタッフも動きづらかった。せっかくの市民の力が報われない仕組みではダメだ。
・今回のミーティングは、市民ボランティアチームはまことりの主催。本来ならば、こういったことは本展の広報より伝えられなければならないこと。本展広報が機能しないようならば、はまことりが主導を握るような動きをしたらよいのでは?
・情報の統一、共有を。透明性を。情報流通の仕組みを作り上げてほしい。
・2001年の反省が生かせるように、前回ボランティアスタッフより集めたアンケートを公開してほしい。
・今回のミーティングで出された声を、市民の声として財団に届けよう。
■Bグループの報告
○参加者
舞台企画、現代アート好きサラリーマン、横浜トリエンナーレ2001ボランティア参加者、子供デザイン教室、金沢文庫芸術祭運営委員
●街づくりにどう落とし込むか
・横浜市金沢区にある産業団地やゴミ処理場を、工房、レジデンス、作品発表に活用し、プレイイベントとして一般の人にPRする。
・トリエンナーレ後もカフェや交流の場として活用できる場を残す。
・トリエンナーレで創られた作品を横浜に残す。
・前回のトリエンナーレは横浜を知る仕掛けがまったくなく、がっかりした。いろんな作品を建物の中ではなく、野外に設置することでアートとの出会いを仕掛け、会場への導線を作ろう。
・横浜の生活、食文化とイベントをどう絡めていくかが重要なのでは。
● 多様な人をどう巻き込むか
・イベントPRを限られた人にしかできない媒体(HP、新聞、広告など)だけでなく、現代美術をまったく知らない人に対して、一年かけて、現代アート、トリエンナーレのプロモーションが必要である。
案:フリーペーパー(長期間蓄積し資料となるようなもの)、電車(東横線→銀座線→日比谷線とエリア拡大、沿線のカフェ
・作品は街に出ていったほうが面白い。(広州ビエンナーレでは地下鉄の駅、車両、トイレがアート展示スペースになっていた)
・普通のサラリーマンが土日も参加できるものが欲しい。
・高齢者、子ども、障害を持つ人が作品に楽しく触れ、参加、体験できる仕組を加える。これこそ現代アートの面白いところなのでは。
・現代アートを分からないという人を巻き込んで、発見してもらう仕組をつくる。
● 次の会に繋がるように、自分達がやったことに対する評価をシステムとして評価するには
・認知度を深めるため、本展と市民活動の位置づけをはっきりする。
・市民が自分達でやったことにフィードバックする。
●トリエンナーレによって横浜の土地を知り、横浜が出会いの場所となるためには
・イベントの期待感、驚きを仕掛ける
案)マリンタワーに帽子をかぶせる。(4月、5月頃展示予定)会場建設地の入り口にコンテナでのゲートを作る。
・ プロセスをどうオープンにするかを考える。
案)外から見えるミーティングルーム、カフェ、バー、託児所の場を設ける(4月、5月頃OPEN予定)
・仕掛けの場を設ける。
・ トリエンナーレ後、地域のために地域の場となる施設を残せるようにする。
■Cグループの報告
○参加者
音楽家、フリージャーナリスト、アートマネージメント、アトリエ経営、アーティスト、アートライター、イベント企画、学生、芸術文化振興財団職員
●本展の作品において求めることとは何か
・アート作品自体の質。
・作家、作品を選ぶキュレーターと一緒に話し合いたい。
・アーティスト選びの提案を聞き入れてほしい。
●トリエンナーレに市民が主体的に参加するには
・なにより情報の透明化と、双方向可能な情報発信が必要である。また前回のトリエンナーレの報告をネットで簡単に見れるようにしてほしい。
・市民がリードするアイデアを提案し、実行する。提案のやり方、内容などについてしっかり考える。
案)市民で話し合った結果に出た要望など、財団など本展の関係者に確実に伝えてもらい、それに対してのなんらかの答えを確実にもらうようなシステム作り。
・本展に市民の意見が出せるように、今こそ仕組みを作るべき。
・本展の予算の一部を市民の活動に回す。
●横浜市全体で盛り上がるには
・ギャラリーや美術館、ミニシアターなど普段からアート活動をしている団体や人などを中区から枝葉に広がるよう横浜市全体を巻き込む。(積極的に参加してもらうよう、予算もそちらにつける)
・しいては経済の活性化へつながるのでは。
今回にて「どうなる? どうする! 横浜トリエンナーレ2005」の報告を終わらせて頂きます。しかし、これからも「はまことり」の活動報告、呼びかけなど、随時ブログに掲載しますので、是非、こまめにアクセス願います! (ドイ)
December 11, 2004
どうなる?どうする!「横浜トリエンナーレ2005」 -その3-
その3では、横浜市芸術文化振興財団 専務理事・事務局長 加藤 種男さんより「今日は財団理事の立場ではなく、(緊急集会への)-参加者としての立場で発言する」と断った上でお話し頂いた内容を掲載します。
■横浜トリエンナーレ2001から感じたこと
前回の横浜トリエンナーレ2001を外部から見た感想として以下の3点を上げられました。
まず、横浜で開催した意味があるのだろうか、ということです。あえて横浜という土地で開催した理由をあまり感じることができなかったそうです。次に、双方的な市民とのコラボレーションができていたのかということ。そして、継続性の問題。3年に一度のみという形でなく、日頃から何か続けてやっていて3年に一度大がかりなものをやるという形の方が良いのではないか、ということだそうです。
また、こうした継続的な動きは、横浜市芸術文化振興財団が協力しつつ、関心ある市民自身が担い手となることが望ましいという発言もありました。
■横浜トリエンナーレ2005、これからのアートに期待すること
次に、横浜トリエンナーレ2005に期待することは以下の点だそうです。まず、世界の現在の精神と繋がるような最も先端的なもの。ただし、同時に横浜の資源を発掘し、そこに価値を付与するようなもの。さらにその手法として、市民と協働してできるだけやっていくもの。
それらを総称して「シティー・アート」と呼び、今までのアートの在り方と違った形を提唱したいとのことで、アート作品自体の質のみ評価するのでなく、その表現法、市民との関係性、その在り方などを重視したいとのことです。こうした方向性は、ディレクター就任の交渉をしている川俣氏にもお願いしているそうです。
そして、横浜トリエンナーレ2005において市民に求めることとしては、もっと主体的に参加してほしい、例えば、作品を一緒につくるのみでなく、自分で企画を提案し、トリエンナーレを利用するくらいの気持ちで関わってほしいとのことでした。市民それぞれが主人公という気持ちで参加することを何より重要視されていました。(ドイ)
どうなる?どうする!「横浜トリエンナーレ2005」 -その2-
その2では、横浜市文化芸術都市創造事業本部 創造都市推進課 担当課長 野田 邦弘さんより横浜トリエンナーレ2005の現在までの経緯の説明と「はまことり」や会場の皆さんからの質問に答えて頂いた内容を掲載します。
経緯の説明から、今回、ディレクターが磯崎新氏から川俣正氏へ交代されるまでの一連の流れを、横浜市側の視点から伺うことができます。
■これまでの経緯
まず、これまで横浜トリエンナー2005の情報を発表できなかったのは「発信できる情報がなかったから」とのことでした。なぜならば、下記のような、先行きが不明な現状だったからだそうです。
野田さんのお話によると、6月下旬に磯崎新さんがディレクターに就任し、9月に世界の美術財団と建築家とアーティストとのコラボレーションを30作る案を提案されたそうですが、海外の美術財団が7月半ばから9月中旬まで夏休みということで、漸くそれ以降、精力的に各国を周り交渉できたそうです。しかし、その結果参加の応えを出したのはわずか5つの財団のみで、11月中旬、磯崎氏はこの案の実現を断念されました。そして、磯崎氏は第2案を提案し、こちらは会場となる2つの倉庫をそれぞれ3つに区切って合計6つブロックを作り、それぞれに6つのテーマ(アイコン)を割り振り、コンセプチュアライザーが具体的なコンセプトに落としてアーティストが作品を作るというものでした。そして、6つのテレビ局をそれぞれにつけるというもので、予算が当初の倍かかるということからも、出資をテレビ局にもお願いしようと考えました。しかし、やはりこのご時世にテレビ局からの出資は厳しいということで、主催4団体が一致して「この案では無理」と確認し、こちらの案も実現不可能となってしまいました。
一連の流れの後、磯崎氏は横浜トリエンナーレ2005のディレクターを辞任し、現在、川俣正にディレクターにお願いすることになりました。
とにかく2005年秋に横浜トリエンナーレ2005を開催させる強い意志があるにも関わらず、先行き不明な情報ばかりだったため、市民の皆さんへお伝えできなかったとのことでした。
■質疑応答
Q1、本来、今年開催されるはずだったのに、なぜ遅れたのか?
A、
場所の確保ができなかったため。
前回は第1回だったため、終わってみないと次回、本当に開催できるか判断できず、場所の予約が第1回の終了直後になってしまった。しかし、その時パシフィコには既に他の予約が入っていた。
パシフィコにこだわったのは、1万?以上の場所を100日間使用できる建物が都心で他に無かったから。しかし、なんとか必死に変わりとなる他の場所を探し、漸く山下埠頭の市営上屋を押さえたが、やはり時間がかかってしまった。
Q2、来年必ず開催できるという根拠はどこにあるのか?
A、
根拠はありません。
しかし、開催させる気迫はある。
世界中の国際展を見ると半年で準備できているものもあるし、不可能なことはない。
勿論、質がおちないよう、次のディレクターにはようようお願いしてある。
また、これ以上遅らせることは、市民との約束違反であるし、国際的に大きな恥となってしまうから、必ず開催させる。
Q3、広報活動、情報公開が少ないのでは? (前回のトリエンナーレの情報を含め)
A、
広報活動においては新しいことをタイムリーにお伝えする精神でいる。
しかし、先ほど述べたよう、現時点では広報できる情報がない。
ちなみに、前回のトリエンナーレの情報においては何度か分けて公開した。
また、その時の開催概要、基本的な記録、アンケート結果などの報告書はある。
また、前回のことを現在あまり知ることができないのは、横浜市の前回の関係者が現在、トリエンナーレ担当部署に皆無であることも原因の一つである。よって、今後その役割を横浜市芸術文化振興財団に移行する予定である。
Q4、次回のテーマは何?
A、
主催者の一つである横浜市としては、横浜でやる意義を打ち出すことをテーマにし欲しいと考える。しかし、まずは新しいディレクターのもとに開催にあたってのチームを作り、その体制を立てることが先決。正式なテーマはその後。
Q5、世界的グレードを意識するとは?
A、
そもそも、横浜トリエンナーレとは国際交流基金も主催者である事業。つまり、国を代表する企画でもあるから、そこを意識しないといけない。
横浜市としても、国の内外に芸術創造の情報発信をしていく。そのためにはグレードの高いものが必要。
(ドイ)
どうなる?どうする!「横浜トリエンナーレ2005」 -その1-
2004年12月11日、私たち「はまことり」は「どうする?どうなる!横浜トリエンナーレ2005」というテーマのもと多くの人に集まって頂き、初の交流会を開催しました。今回を含め、全4回でその報告をします。
■開催の経緯と
まず、このテーマに至ったのは2004年12月4日BankART1929にて多摩美術大学芸術学科建畠ゼミにより開催された『横浜会議2004-なぜ国際展か?-』に参加した際のシンポジウムの席上で、横浜トリエンナーレ2005のディレクターであった磯崎新氏(現在は辞退されました。)から、「自分の構想の実現は、時間的制約から来年の開催が難しい」という衝撃発言が飛び出したことからでした。「はまことり」としては「一体、横浜トリエンナーレ2005はどうなるの! ? 」という危機感に襲われ、急遽このテーマに変更して会を開くことにしたのです。
(当初、12月11日に開催予定していた交流会は、今後「はまことり」に参加してくれる方や企画を出したい方などが親交を深めよう、というものでその案内のチラシの情報のみでいらした方、すみません。)

会の内容としては、まず横浜トリエンナーレ2005においての今までの経緯を横浜市文化芸術都市創造事業本部 創造都市推進課 担当課長 野田 邦弘さんより説明して頂き、その後、「はまことり」や会場の方からの質問に答えて頂きました。次に、前回の横浜トリエンナーレ2001に参加した方より、その時の状況や心境など語って頂きました。そして、「はまことり」もお世話になっている横浜市文化進行財団 の専務理事・事務局長 加藤 種男さんより横浜トリエンナーレ2005やこれからのアートについてお話頂きました。
その後、会場にいらした方を3つのグループに分けてディスカッションし、後で発表しました。
すべての詳細は確認後、後日掲載いたしますので、またご覧下さい。
いずれにしても、これをきっかけに横浜トリエンナーレ2005において「はまことり」の役割が随分大きなものとなった気がします。しかし、そもそも「はまことり」自体、一市民の集まりですので“市民の視点からトリエンナーレを楽しむこと”に、全体の重要度が移行されたとも思いました。
いよいよ飛び立つ「はまことり」のこれからに、是非、注目下さい!
*「はまことり」への参加希望の方もお待ちしております。 (ドイ)
December 07, 2004
「横浜会議2004」-なぜ、国際展か?- にて
2004年12月4日、BankART1929 YOKOHAMA にて多摩美術大学美術学部芸術学科建畠ゼミのカリキュラムの一環として学生が中心となり企画、運営された「横浜会議2004」-なぜ、国際展か?-というシンポジウムが開催され参加してきました。

(↑左から岡部あおみさん、長谷川祐子さん、北川フラムさん、南條史生さん、磯崎新さん)
■開催主旨とは?
建畠ゼミにて、今日の美術が大規模な国際展に主導権を握られているような現状もあるということから、改めて国際展というものがどのような目的をもって、どのようなキュレーションによって組織されているか討議する場を設けたいと思ったのが開催のきっかけのようです。
そして、そのために国際展の芸術監督およびその現状に詳しい方5名に、自ら関わった国際展のレポートをしていただき、国際展の開催の意義やキュレーションの方法、今後の展望について討議していただくとともに、それらについて参加者皆で考える機会にしたいと思ったため、今回のシンポジウムを開催されたそうです。
■5名のパネリスト
まず、岡部あおみさん、長谷川祐子さん、北川フラムさん、南條史生さん、磯崎新さんといった5名のパネリストが自己紹介も兼ね、それぞれが関わってきた国際展についてお話されました。(*5名については下記詳細有り)
中でも、第2回横浜トリエンナーレのディレクターである磯崎さんはその構想を以下のおようにお話され、広報チーム「はまことり」としては大変興味深いものであったので、詳細をお伝えします。
■磯崎新氏の横浜トリエンナーレ2005の構想
まず、過去の国際展の在り方と社会の関係性を具体例を上げながらお話され、現在においての構造は、ディーラーが国際展後行われるアートフェアで得をするようになっており、アートを商品として見ているのではないかと提示されました。
よって横浜トリエンナーレ2005を世界レベルの国際展にするには根本な構造を変える必要があり、とにかく国ベースでなく、キュレーターがアーティストを選ばないようなものにしないといけないとのことでした。そして考え出されたのは、世界の美術財団と建築家とアーティストのコラボレーションというものでした。
財団の数は最初約150団体ピックアップし、そのうち50団体に絞り声をかけたそうです。そして、それぞれの財団がキュレーターの変わりとなってアーティストを紹介するとともに、そこへ建築家を交えたコラボレーションを展開するとのことでした。三者の組み合わせにおいて特に意識したことは、なるべく違う国同士で組み合わさるようにということで、磯崎さんは世界国家という言葉を「Inter National」でなく、あえて「World Atlas 」という表現にされたとからも、そのことへの思い入れの強さが伝わります。
そして、それらの具体案を紹介されたのですが、残念なことにその完成は2005年秋までには間に合わないとのことでした。
■どうなる!? 横浜トリエンナーレ2005!!
ということで、「これからどうするべきか」パネリスト5名で討論される中、急遽、磯崎さんの第2案の発表が始まりました。
こちらは「IMAGINE or Imaginaire de L'homme」というタイトルで、6つの「テマティック・アイコン」をテーマにしたもので、要はアイコンにコンセプトをつけてコンセプチュアライザーが表現していくというものです。例えば、アイコンが「ゴジラ」でコンセプトが「キャラ」でコンセプチュアライザーが「島田雅彦と蔡國強」といった感じで、いかにも集客数が高くなりそうな企画で、やはりそれが目的のようでした。つまり、動員数をあらかじめ100万人と予測することで運営資金を高く見積もることができ、黒字でトリエンナーレを決行できる緊急企画だったのです。
しかし、残念ながらこの案について横浜市から磯崎さんへは間接的に「却下」というお知らせがきたそうです。
こうして、磯崎さんの案は二つとも、実現化が厳しい状況になってしまいました。
以上のことから、またしても、「これからどうするべきか」ということになりました。ある方は、「すでに一年遅れとなってしまっているのだから、どうせなら、もう一年延ばし、世界レベルに匹敵する大規模な国際展にしようじゃないか」とのことでした。
また、ある方は現実的に考えて、「そうは言っても来年開催されるものとして現在多くの人や金が動いている中、延期は無理だからなんとかしてやるしかないのでは」とのことでした。そのための案の一つとして、世界中のキュレーターの中から数名ピックアップし、最小の人数で最大限の力を発揮したらできなくはない、という意見もありました。
そして、こういった中、「そもそも横浜市はトリエンナーレについてどのように考えているのだろうか」という声も出てきました。というのも、先ほど磯崎さんに「日本を越えたものにして欲しい」とおっしゃったよう、本当に世界レベルに匹敵する国際展を考えているなら、磯崎さんにディレクターを依頼する時期があまりに遅すぎたのではなかったのかなど根本的なところにいくつか疑問点があげられたからです。
■横浜トリエンナーレ2005周辺企画の広報チームとして
今回のシンポジウムは、当初のゼミの主旨を飛び越えた、横浜トリエンナーレ2005をめぐっての様々な意見の飛び交いや知られざる事実の発覚の場となり、「はまことり」としてただごとならぬ出来事となってしまいました。
とにかく私たち自身は横浜トリエンナーレ2005をきっかけにアートを楽しむ企画をせっかく準備しているので、これからの展開には目を離せません!(ドイ)
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「横浜会議2004」-なぜ、国際展か?-
日時:2004年12月4日 18:00~
会場:BankART1929 YOKOHAMA
主催:多摩美術大学美術学部芸術学科建畠ゼミ
参加パネリスト:
・岡部あおみ(美術評論家、武蔵野美術大学教授、国際交流基金国際展事業委員会委員):パリ・ジョルジュ・ポンピドゥー・センター「国際美術映像ビエンナーレ」審査員(1990、92年)など
・長谷川祐子(キュレーター、金沢21世美術館学芸課長):第7回イスタンブールビエンナーレ総合コミッショナーなど
・北川フラム(アートディレクター、アートフロントギャラリー代表):越後妻有トリエンナーレ総合ディレクターなど
・南條史生(森美術館副館長、美術評論家、インディペンデントキュレーター):第1回横浜トリエンナーレ・アーティスティックディレクターなど
・磯崎新(建築家、磯崎新アトリエ代表):第2回横浜トリエンナーレディレクターなど
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December 06, 2004
「第3回横濱学生映画祭〜横浜国際映像文化祭2004」に行ってきました。
広報チーム「はまことり」は今回は、平成16年度横浜トリエンナーレ応援企画共催事業(〜11月開催分)として認定を受けた「視像群」を含む、第3回横濱学生映画祭〜横浜国際映像文化祭2004の取材にドイとかねこ2名で行って来ました。
■横濱学生映画祭とは?
横濱学生映画祭とは従来の映画上映における文化交流という枠を越え、急速に拡大するアジアのコンテンツ市場を見据え、教育と産業の両面から映画制作のあり方を検証するイベントです。
今回はその第3回目にあたり、世界的に有名なチャンイーモウや、チェンカイコウなど中国が世界に誇る映画監督を輩出してきた名門である北京電影学院の全面協力により、一気に国際化したものとなりました。
■「視像群」とは?
北京電影学院に今年から開設された「ニューメディアアート科」の教授でもあり、作家である方々の作品を紹介したものです。
当初、この企画の内容は壁面に映像を流すインスタレーションのみと聞いていましたが、実はそれ以外にも様々な映像作品や写真などがあり、それらすべてを含め「視像群」とのことでした。
まず、こちらの画像(←)が先のインスタレーションです。
あいにく、私が訪れた日に見ることができなかったので、後日、担当の方にお伺いしました。タイトルは「浮遊」で、内容は水面に北京の風景を投影し、その水面に指で文字のようなものを描くといったもの。ちなみに、水面に指で文字を描くというモチーフは仏教のもだそうです。画像は室内のものですが、実際は日大大通りの情報文化センターの二階の壁面に流されました。
次に、これら(↓)は「視像群」のうちBankART1929馬車道で紹介されていた作品の一部です。
こちらでの作品は急遽展示が決まったもので、展示される事を知らずに会場へ訪れたのですが、とにかく見るなり衝撃を受けました。というのも、いくつかの作品がすごくグロテスクなものだったと言うのは去ることながら、強いメッセージを放ているものが多かったからだと思います。しかも、そのうちのいくつかは他でも拝見したことがあった有名な作品だったので、急遽見れたことに驚きと喜びを感じました。
この「急遽」というのは、日本の一般的な美術館やギャラリーではあまりあり得ない感覚だと思うのですが、大変面白かったので、またこういった展覧会があれば是非とも見に行きたいと思いました。(ドイ)


(左の画像が劉旭光の「墨滴」で、右の画像が一方の式王鴻海、劉旭光の「一方の式」)
■榎田竜路さんへのインタビュー
榎田竜路さんは、今回の企画を主催された特定非営利法人横浜アートプロジェクトの理事長です。榎田さんに、横浜アートプロジェクトについて、次に今回の企画のうち「視像群」についての裏話やご苦労なさった点などについてお伺いしました。
○特定非営利法人横浜アートプロジェクトについて
横浜アートプロジェクトは特定非営利法人化する以前(3年前)より、「子供の心を守る」「感覚を豊かにしよう」というコンセプトのもと、横浜開港記念館で「伝わるものコンサート」を行うなど様々な活動を精力的に行ってきました。
今回の映画祭もその活動の一環です。メディアリテラシー(メディアを使いこなす能力)を自分達自身が身に付けよう。マスメディアが変わらないのであれば、市民の手による市民メディアを市民自らが主体的に起こすことで、自分という主体を見失わないようにしていこうという目的のもと開催されたそうです。このお話自体は映画祭を含むもっと大規模な話で、今後も様々な活動が展開される予定となっているそうです。広報チームとしてもブログや、WEBで随時追いかけていきたいと感じました。
○「視像群」について
今回の映画祭自体の企画は今年7月頃より準備が始まりました。
その中でのビデオインスタレーション作家14名は2名を除き、映像が専門ではない方だったとのこと。
今の時代、センス・体力があれば映像は以前と比べて驚くほど簡単に取れるようになってきています。このため他の分野の作家(たとえば書道家)がこうしてビデオインスタレーション作品を創れるようになっているとのこと。どの作品も完成度が非常に高く、本業の映像作家の手によるものだと思っていたので非常に驚きました。先ほどお伝えした、市民が自ら主体的に市民メディアを起こしていく、ということがこの作品を鑑賞することで現実感を伴ったものとして、しっくり胸に落ちてきました。
ご苦労されたエピソードは、上映作品が直前3日前にやっと判明するなど、何が起こるかわからない状態で進行したことだそうです。
榎田さんは、「だからアートは面白いんだ!現在進行形でさまざまなことが起こる、生きているんだから。そしてそれがアートなのではないかと。」とのこと。そうおっしゃる榎田さんは、ご自身も現役のミュージシャンとして活躍されるアーティストです。榎田さんの全身からは取材の間中、強いエネルギーがビシビシと私たちに伝わり、パワーを沢山いただきました。
榎田さん、ありがとうございました!(かねこ)
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「第3回横濱学生映画祭〜横浜国際映像文化祭2004」
開催日:平成16年11月12日(金)〜14日(日)
会 場:横浜市開港記念会館(国重要文化財)横浜市中区本町1-6、
BankART1929馬車道ホール 横浜市中区本町4−44他
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